人々は人生の中で、何度も聞いたり読んだりした人生の教訓になる言葉があります。
「人はただ 身の程を知れ 草の葉も 露も重きは 落つるものかな」徳川家康人生訓
「禍福は災いの始まり 程々が最上なり」「惜福・分福・植福」・・福は生きもので流動的であります。
これらの言葉は「器量」と言う考え方を中心にして示されている教訓です。
人の人生を考えて見ると、自分の意識以外の所で動かされている要因に、多々出会うことがあります。
運命学的には「因縁」とか「因果」とか言う言葉で言い表しております。縁に出会っても「器量」と言う「才」の小・中・大によって大きな差となります。
小才は縁に出会って縁に気づかず。
中才は縁に気づいて縁を生かさず。
大才は袖すり合った縁も生かす。
こうした縁によって人の良否吉凶の福寿がもたらされて来るのです。
人には生まれ備わった器量と気質があります。それが縁によって発動して行きます。生まれ備わった器量にはバランスと言う状況があります。
明治期に流行した「三世相」の考え方の中に「人は一生涯の食べる運気を持って誕生している」と示されております。
人生の早い段階で運気を使い果たせば後の人生は尽きる人生となり、思い通りに行かぬことになり、運気を上手に使い切ることを説いているであります。
その理から行くと「苦労は華である」と言うことになり、お釈迦さまの説かれた「この世は苦の娑婆(しゃば)」と言う教えを三才の世代に亘り示し、運命学的に説いたのが「三世相」です。
戦後の国民の意識全体に「物が豊かになれば幸せになれる」と言う願望で努力して来た時代でありました。しかし「福」に恵まれたと言う自覚認識のないままに欲望が際限なく求められて来ております。
今の時代が欲望に満たされて福を使い果たせば次世代は苦の要因が待っている事になります。
惜福と言う行いは大変重要であり、掴める運気を掴まずに福を貯蓄する、あるいは人に譲ると言う行為です。良く山菜取りやきのこ取りで 根こそぎ取らず来年の収穫の芽を何割か残すと言う話しを聞きますが、惜福のそうした行動が次世代に福をもたらす事になります。